大型の野生動物がこれだけ大量に死んだことは最近にはなく、チェルノブイリ事故の余波の消え去らないヨーロッパ諸国ではパニックとなった。
各地で大量に死んで浮かび上がった魚を調べてみると、エラはねばねばした膿のようなもので塞がれ、アザラシの方は餓死状態で体一面にシラミのようなものがこびり付き、内臓にも寄生虫が取りついていた。
とくに、死体で打ち上げられた中には妊娠中のメスが多く、異様な死に方だった。
瀕死で救助されたものも、鼻水をたらし咳が止まらず、ぜいぜい荒い息をしていた。
明らかに、肺炎の症状だった。
調査に当たった西ドイツ・ハンブルク大学の海洋研究所やデンマーク政府は「魚の大量死は海洋の汚染によって、海水が富栄養化してプランクトンがはびこったのが原因」と結論を下したが、アザラシの方はなかなか原因が突き止められなかった。
まず、症状からウイルス感染が疑われた。
1979年111月から翌年夏にかけて、米国ニューイングランド地方のコッド岬(マサチューセッツ州)からメーン州の海岸一帯で、500頭ものゴマフアザラシがインフルエンザ・ウイルスの流行で死んだ事件があったからだ。
間もなく、オランダ国立公衆衛生・環境保健研究所のウイルス学者が北海で保護された病気のアザラシ28頭のうち117頭から、犬のジステンパー・ウイルス(CDV)らしい抗体を検出した。
ハシカウイルスにきわめて近い種類だ。
さらに78頭の健康なアザラシのうち113頭からも同種の抗体が確認された。
その直後、イギリスの農業食糧研究所は、これをCDVに酷似しているがハシカウイルスの新種であると発表した。
人間のハシカや家畜の流行病として恐れられている「牛疫」にもきわめて近いという。
現在では「CDV様ウイルス」「アザラシ・ジステンパー・ウイルス」「アザラシ疫病ウイルス」などと呼ばれている。
このウイルスは通常、鼻の分泌物や唾液から感染する。
体内ではリンパ系を冒して免疫を破壊する。
だが、このウイルスは水中では生存できず、アザラシが繁殖のために陸に集まってきたときに、集団感染したと考えられている。
アザラシの中には抗体を以前から持っていたらしいものもおり、このウイルスは以前からいたものだという可能性が高い。
それが、なぜ爆発的に流行したのだろうか。
大量死のころ、海鳥の繁殖も例年になく少なかったことから、化学物質汚染との関係に注目が集まっている。
烏がPCBなどの有機塩素化学物質で汚染されると、ホルモン系が狂って殻がつくれなくなり、ぶよぶよの卵を産むようになる。
これでは親が抱いたとたんにつぶれてしまう。
西ドイツ獣医学研究所が死亡したアザラシの子供を解剖したところ、内臓から高濃度の水銀のほか、カドミウム、鉛、PCBなど少なくとも150種もの有害物質を検出した。
実際に、バルト海西部のスウェーデン沿岸のアザラシの調査では、PCBなどに冒されて、90パーセントが生殖不能、60パーセントが爪などに障害が見られた。
アザラシにPCBを混入した餌を与えたオランダの実験でも、体内のPCBの蓄積とともに、免ソ連にも飛び火実は87年の暮れから88年にかけて、この北海・バルト海の事件の直前にソ連でもアザラシの大量死が起きていた。
ソ連には、世界的に珍しい内陸産のアザラシがバイカル湖やカスピ海に生息している。
とくに、世界で19種いるアザラシ科のうちで唯一、淡水産のバイカルアザラシが原因不明で次々に死に、88年9月までに1000頭もの死体が回収された。
全生息頭数の一割に当たった。
バイカル湖研究所などの調査で、アザラシからCDVに似たものが見つかった。
北海と同じものとみられている。
バイカル湖も近年、岸沿いにできたパルプエ場などから廃液が流し込まれて汚染疫が急激に低下することが判明している(ちなみに、この実験は動物保護団体の主張を入れて、アザラシに重大な危害を加えないことと、実験後健康に害がなかったことを完全に確認してから解放する条件で行われた)。
また、アザラシの大量死に先立って、プランクトンや藻が大発生してその死骸が海底を覆っていた。
これが、アザラシを餌不足に陥れたり、酸欠を招いて海洋の生態系を混乱させていた。
こうした深刻な海洋汚染でアザラシの免疫力が低下していたところへ、ウイルスが流行した、と考える専門家が多い。
北海は比較的浅く、容積は4万7000立方キロほどで、日本海の30分の一ほどしかない。
この狭い海域は、何世紀にもわたって沿岸国のゴミ捨て場となってきた。
エルベ、ウェーゼル、エムがひどくなっており、これが間接的にアザラシ集団死の引き金になっていることは、ソ連の学者も認めており、状況は北海と変わらない。
北海やバルト海のアザラシは、定住性で広範囲を移動することが少ない。
それがなぜ全域的に流行してしまったのかは、まだ分かつていない。
1987年から88年にかけての冬に、グリーンランド北部からカナダ北極圏にかけて、ジステンパーが大流行して、犬や野生のキツネに大きな被害が出た。
イヌイット(エスキモー)の集落では、8割以上の犬が死んでしまったところもある。
これが原因なのか、あるいは病気で死んだり弱ったアザラシを食べたために流行したのだろうか。
バイカル湖と北海の2つの大量死の関係は分かつていない。
すでに海、陸を含めた広範囲のウイルス汚染が起きているとみる専門家もいる。
このアザラシの大量死が下火になった10月に、北アイルランドのアイリッシュ海に面したストラングフォード湾で、3頭のバンドウイルカの死体が見つかった。
いずれからも、アザラシと同じウイルスが検出された。
ウイルスがホッキョクグマやキツネ類などの野生動物に広まっていて、それがバイカル湖に運ばれたという説もある。
もしも事実なら、これから先、野生動物たちの一大悲劇に発展することにもなりかねない。
重金属については、40〜70パーセントが大気汚染が原因で、大気経由で海に降りそそぐ。
加えて、海洋への廃棄物の投棄、海上での危険物質の焼却、船からの垂れ流し、石油掘削リグからの原油の漏出……と、海に厄介物が捨てられてきた。
海流は時計方向に流れており、イギリスの河川からの汚染物質は北海をぐるりと一回りしながら広がっていくことになる。
一方で、大陸側からの汚染は、ドーバー海峡がすぼまっているので北海内に滞留して、デンマークがスカンジナビア半島に迫るスカゲラグ海峡付近に濃縮する形となる。
これはちょうど、アザラシの大量死や藻の大発生の海域と重なる。
北海の汚染は世界的にみても最悪の部類に属する。
87年9月に西ドイツ政府が発表した『北海環境白書』によると、生活排水を含めた廃棄物が年間総計一億トンも北海に流し込まれている。
この中には、富栄養化の元凶の窒素150万トンに加えて、鉛一万1500トン、亜鉛2万8000トン、砥素950トン、カドミウム335トン、水銀75トンといった重金属や、動物のホルモン系や免疫系を狂わせたり、発がん性のある有機塩素化合物が、河川経由で流入したり、または海洋投棄されている。
北海には、4000の油井と150の掘削施設があり、これらの施設と陸地を結ぶパイプラインからは、少なくとも年間3万トンの原油が漏れ出す。
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